音楽

ハファエル・マルチニ『Martelo』ブラジル音楽ミナス新世代を代表するピアニストの傑作

ハファエル・マルチニ(Rafael Martini)の『Martelo』は、2010年代から日本でも注目されるようになったミナス新世代によるブラジル音楽を知るうえで欠かせない1枚といえるでしょう。

はじめに


ハファエル・マルチニは1981年9月5日生まれ、ブラジル・ミナスジェライス州ベロオリゾンチ出身の鍵盤奏者(マルチ奏者)、作編曲家、プロデューサー、SSW。
自身が音楽を学んだミナスジェライス連邦大学(UFMG)で教員も務めています。

ディスコグラフィ

グルーポ・ハモ(Grupo Ramo)やミストゥラーダ・オルケストラMisturada Orquestra)としても活動し、エグベルト・ジスモンチ(Egberto Gismonti)のカルテットにも参加したほか、数多くの作品に名を連ねています。

Martelo


先行シングル2曲を含む、全5曲・約45分のアルバム『Martelo』(読み:マルテロ、意味:ハンマー)は、クラシックの音楽理論を踏まえたポピュラー音楽。
ジャズ、プログレ、現代音楽、電子音楽、エレクトロニカ、ポストクラシカルなどの要素を含む、先鋭的なブラジル音楽が提示されています。

クレジット

【1】Martelo


表題曲かつ第2弾シングルの「Martelo」(2022年8月12日)。
ハファエル・マルチニが「アルツハイマー病を患った母親との生活を語る」というコンセプトに基づいて生み出した約13分におよぶ大作で、「妄想と繰り返し」という症状や「精神状態の変化」、あるいは「意識と無意識」が描かれています。
セルビア・ベオグラード出身のバイオリン奏者ルカ・ミラノビッチ、ハファエル・マルチニと同じくUFMGの卒業生かつ教員のチェロ奏者フェリペ・ジョゼによるストリングス、イチベレ・ズヴァルギ(Itibere Zwarg)のグループ出身のジョアナ・ケイロスによるクラリネットがキャッチーなテーマを繰り返したり、ベースレスのセクステットでベース(ダブルベース)の役割を果たしたりしているのが印象的。
ハファエル・マルチニはピアノでソロ、テーマ、ブレイクなどと展開し、シンセベースでベースの役割も果たしています。
フェリピ・コンチネンチーノによる変拍子のドラムも驚異的。
さらにペドロ・ドゥランエスのプログラミングやエフェクター使いなどによって、ジャズ的なアコースティックのアンサンブルと電子音楽が違和感なく融合しています。
パーソナルでデリケートなはずのコンセプトが、普遍的かつ多層的な精神構造の表現に昇華されているようで圧倒されます。

Prelude – take 1

Delusion and Repetition

【2】Passagem


「通り道」という意味の「Passagem」も約8分40秒の長尺です。
1曲目「Martelo」のコンセプトはアルバム全曲に共通しているものの、テーマの繰り返しではなく、ピアノ(右手)によるメロディーは直線的に変化していきます。
アルヴァ・ノト(Alva Noto)と坂本龍一さんのコラボのような、「ブチブチ」というグリッチノイズやドローンを含むエレクトロニカとピアノの組み合わせが印象的。
ピアノ(左手)の伴奏はミニマルながらも変化があり、チェロ、クラリネット、ドラム、バイオリン、バスクラリネットによる展開も怪しげな雰囲気を漂わせながら美しく重なります。

【3】Nascente Afluente Vazante


第1弾シングル「Nascente Afluente Vazante」(2022年8月5日)は「水源、支流、流出」という意味。
アルバムの全5曲ともハファエル・マルチニが作曲していますが、この3曲目のみミナスジェライス州サンタ・ルジア出身の打楽器奏者ジョニー・エルノ(Johnny Herno)が作曲に加わりました。
ブラジルの打弦楽器(楽弓ビリンバウの共鳴器をヒョウタン(カバッサ)ではなく、ペンキ缶に変えた特殊楽器ビリンラータを奏で、呪術的な声を発しています。
おどろおどろしい展開になるのかと思いきや、続くピアノやチェロ、クラリネット、バイオリンで奏でられるテーマは陽気な雰囲気です。
約7分半の楽曲ですが、4分半頃に再びビリンラータが前面に出てくるまでは水源から軽快に水が流れ出す様子が表現されているのではないでしょうか。
5分過ぎから始まる「ワカカカ」などと聴こえる声は、本流が支流に分かれたのか、あるいは支流が本流に合流したかのような変化が感じられます。
その「ワカカカ」の驚きも落ち着いた6分20秒頃に、しゃっくりとくしゃみとげっぷが混ざったようで、そのどれでもない「プレップ―」と聴こえる衝撃の声が発せられます。
これが川から海への流出を表現しているのかもしれませんし、「ワカカカ」の時点ですでに流出していたとも考えられそうです。
「意識下に閉じ込められていた無意識が直感的にあふれ出し、通常では感知できない声を聴いたような音楽の川の流れ」とも解釈できるでしょう。
いずれにしても根源的かつ前衛的な音楽に魂が揺さぶられます。

Nascente Afluente Vazante

【4】Se um viajante numa noite de inverno


7分あまりの「Se um viajante numa noite de inverno」は、「文学の魔術師」と称されるイタリアの作家イタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino)の長編小説『冬の夜ひとりの旅人が』(Se Una Notte D’Inverno Un Viaggiatore、1979年)へのオマージュ曲。
曲名は、小説のタイトルのポルトガル語です。
書き出しが繰り返される乱丁本を巡り、「男性読者」と「女性読者」が小説の続きを追いかける読書冒険物語。
その小説に出てくるシーンが描かれた、映画のサントラのような楽曲になっていて、物が落ちる音、ドアの開閉音、吹雪の音、足音なども表現されています。
ピアノの右手と左手や他の楽器でもコードが入れ替わる仕掛けがあり、「偽作本を作り続ける翻訳者」という小説の登場人物になぞらえているのかもしれません。
この小説のメタフィクション構造に、ハファエル・マルチニの母親の「現実と妄想の混乱」を重ねることもできそうです。
インストの楽曲ですが、小説だけでなく、「ハファエル・マルチニと母親の生活」もメタ的に語られているような印象を受けます。

【5】A escuta


ラストを飾る「耳を澄ませて」という意味の「A escuta」も約8分半の長尺です。
「病気の母親との生活を語る」というシリアスなコンセプトのアルバムでありながら、暗く落ち込むわけでもなく、明るく開き直ることもなく、中道が貫かれています。
混乱した時代に、誰もが維持したい心持ちかもしれません。
ピアノ、クラリネット、バンドアンサンブルと展開し、大変なはずの日常を音楽へと昇華させる純粋さに心打たれる人も多いでしょう。
通常は意識しない無意識の領域に耳を澄まし、直感的な本能が呼び覚まされたのではないでしょうか。

A escuta

おわりに


ブラジル音楽もジャズと同じように、そもそも歴史が長く、深く掘り下げられているジャンルですが、さらに新世代の活躍が目覚ましく、進化の著しい電子音楽などとも結びついて活性化しているようです。
従来のジャズやブラジル音楽のイメージのままで止まっていると、新世代ジャズやミナス音楽を聴いて、その斬新さに驚くのではないでしょうか。
さらにブラジル音楽にはクラシック、ジャズ、ポピュラー音楽の西洋的な音楽理論に当てはまらない考え方があるとのことで、本能的に魂が揺さぶられる気がします。
今回のアルバムでも独創的な演奏を披露したクラリネット奏者のジョアナ・ケイロスからイチベレ・ズヴァルギ、ファビアーノ・ド・ナシメント(Fabiano Do Nascimento)とつながったり、ミナス新世代が日本に伝わるきっかけとなったアントニオ・ロウレイロを深めたり、フェリピ・コンチネンチーノの別名義プリッピ(PLIPP)にさかのぼったりするのもおもしろいでしょう。
今後も先鋭的かつ根源的なブラジル・ミナス音楽に注目していきます!

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渡辺和歌
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